天武天皇と九州王朝 - 砂川恵伸

天武天皇と九州王朝 砂川恵伸

Add: sodac74 - Date: 2020-11-30 20:40:03 - Views: 6949 - Clicks: 3964

Bib: BAISBN:. 砂川氏の所説の一部を要約して紹介する。 1日本書紀には、天武の年齢に関する記述が見当たらない。日本書紀は天武を主人公として描くために作成されたにもかかわらず、主人公の年齢を記述しなかったのはなぜか?. 00 点 販売店名: BOOKOFF Online ヤフー店 /04/24 00:39 更新. 天武天皇と九州王朝 古事記・日本書紀に使用された暦 平成衝口発ならYahoo!

『日本書紀』(以下「紀」と言う。岩波文庫全五冊本から引用)全三十巻のうち二十八巻と二十九巻が天武天皇の事績、そして次の三十巻目は妻の持統天皇の事績です。「紀」の編纂は天武の生前に企画され、孫の元正天皇の養老四年(七二〇)、天武の息子・舎人親王(とねりしんのう)により完成をみました。 事績の記述においても、天武は「紀」全文中六八七行で第一位、第二位は欽明四四五行・第三位孝徳三七五行・第四位持統三三六行・雄略三一〇行・以下二〇〇行代が五人・一〇〇行代が十一人・あとは二桁・一桁代が二十人です(『天武天皇と九州王朝』砂川恵伸著、二〇〇六年、神泉社)。 これを見てお解りの通り、巻数・行数ともに天武は断トツで、「紀」は天武のために作られたことは事実です。勿論、この時代は“現代史”であるので天武に関する史料事実が多く、力が入るのは当然としても、私が見る限り「紀」はこの時代の勝者である天武を称揚し、かつ“政権簒奪”を正当化するために作られたのです。そのため、天武に都合の良いように“好き勝手”に編纂されたものと思われます。そして、後述しますが、「万世一系・近畿王朝一元史観」を創出するために、同王朝に先立つ九州王朝やその支配下の全国に数多あった諸国を“なかった”ことにして抹殺したのです。その結果、この時代が全く矛盾だらけの訳の解らないものになってしまったようです。 (なお、当小論で度々用いている“なかった”の語は、古田武彦氏の「九州王朝説をなかったことにしている」という近畿王朝一元史観学派に対する古田氏の基本的な揚言に従っています)。. 「紀」の舒明天皇の条に 「二年の春正月の丁卯(ひのとう)の朔(ついたち)戊寅(つちのえとら)に、宝皇女(たからのひめみこ)を立てて皇后(きさき)とす。后(きさき)、二(ふたり)の男(ひこみこ)・一(ひとり)の女(ひめみこ)を生(あ)れませり、一(はじめ)を葛城皇子(かつらぎのみこ)と曰(まう)す。近江(あうみの)大津宮(おおつのみやにして)御宇(あめのしたしらしめしし)天皇(すめらみこと)なり。二(つぎ)を間人皇女(はしひとのひめみこ)と曰(まう)す。三(つぎ)を大海皇子(おおしあまみこ)と曰(まう)す。浄御原宮(きよみはらのみやにして)御宇(あめのしたしらしめしし)天皇(すめらみこと)なり」 とありますが、ここには大海皇子(大海人皇子)後の天武天皇の生年月日が書かれておりません。「紀」のどこにも書かれていないのです。従って、崩御の年齢が不明であるため、兄とされる天智との年齢差もまた不明なのです。 ところが、鎌倉時代成立の『一代要記』や南北朝時代の『本朝皇胤紹運録』に、「天武の没年齢は六五才」とあって、『本朝皇胤紹運録』には「天武は推古三一年(六二三)誕生」とあります。 そのようなことから、大和岩雄(おおわいわお)氏は、「天武は天智より四才年上」であると論述しています(『天智・天武天皇の謎』一九九一年・六興出版。なお、これについては佐々克明氏の先行論文『天智・天武は兄弟だったか』がある)。また、井沢元彦氏も、「没年齢六十五歳(数え年)なら、天武は六二二年生まれということになる。しかし、その「兄」のはずの天智天皇は、六二六年生まれだ。すなわち、弟の天武の方が天智より四年早く生まれたことになってしまうのである(『逆説の日本史』2「古代怨霊編」一九九八年・小学館文庫)」 と述べております。私も、これに関しては後代史料に基づいているとしても諸兄の説に賛同します。 更に私なりに付け加えると、前述した天智の娘四人を天武の后に差し出しているのです(但し、天智の生前に二人、没後二人)。実の弟とされる者に政略の“具”として大切な娘を、です。不思議を通り越しているといっても過言ではありません。また、後述する「大皇弟」の検証及び前回も論述した天智・天武の母親であるとされた“斉明さいみょう天皇は近畿の天皇ではなく九州王朝の「天子」だった”(古田説)ことから、天武は天智の実弟ではなかっ. 天武天皇と九州王朝 : 古事記・日本書紀に使用された暦 Format: Book Responsibility: 砂川恵伸著 Language: Japanese Published: 東京 : 新泉社,. 天武天皇と九州王朝 古事記・日本書紀に使用された暦 (平成衝口発)/砂川 恵伸(歴史・地理・民俗) - 近畿天皇家は九州王朝の大海人皇子(天武)によって簒奪された!. 天智天皇の崩御について「紀」には、 「「天智天皇十年(六七一)九月に病床に伏した(或本では八月としている)。十一月には疾病(みやまひ)は更に重くなった。天皇は東宮(天武)を臥内(おおとの)に引き入れ、『朕は疾病が甚だ重いので、後事を汝に託す』と。東宮は自らを疾(やまひ)と称して固辞した。後の政に大友王を推し、臣、天皇の為に出家することを乞い願う。天皇これを許す。剃髪して僧になる。天皇は袈裟を贈る。それを着て吉野山に入った。太政大臣大友皇子が皇太子となった。天皇は十二月三日近江宮で崩御した。十一日新宮で殯(もがり)した」 とありますが、ここには陵墓の所在地が記されておりません。「紀」のどこにも記されていないのです。それも、「紀」において天皇陵が所在不明なのは天智天皇ただ一人です。 因みに、持統天皇も「紀」に陵墓が記載されていませんが、「持統紀」は、孫の皇太子・軽皇子(文武天皇)に位を譲った処で終わっているので、この時点ではまだ生きており、陵墓の記載がないのは当然です。このあとの『続日本紀』には、陵墓は記載されております(天武天皇の檜隈大内陵に合葬、大宝三年十二月二十六日)。 ところで、山城国宇治郡山科(やましな)に立派な陵が存在していることから、『岩波文庫』注では、ここが「紀」にある天智の「新宮」であると記しています。 これにより通説は、天智天皇が近江宮(滋賀県大津市錦織遺跡)で病没し、その陵墓は山科(京都市東山区山科御陵上御廟野町)にあるとしています。 ところが、後世(四〇〇年後)の書である『扶桑略記』には、これとは異なる全く不思議な記述が遺されていたのです。 「十月、天皇(天智)病に伏す。そして、天皇に後事を託されたが、自分(大海人)も病気がちであることを理由に固辞し、出家して吉野山に入った。十二月三日天皇が崩御した」 ——ここまでは、「紀」と同じですが、次の記述が問題なのです。 「一伝。天皇、馬で遠乗りに出かけ、山科郷に行幸した。還って来なかった。行方不明になったので、山林を捜索したが履沓が落ちていたので、その地に陵墓を造った」 次に意味不明の記述があります。それは、 「以往諸皇不知因果恆事殺害」 とあって、井沢元彦氏は前掲書で、 「『以往(のち)諸皇(しょこう)因果(いんが)を知らず、恒(つね)に殺害(さつがい)を事(こと)とす』だろうが、これでは意味が.

天武天皇と九州王朝 古事記・日本書紀に使用された暦 砂川恵伸 新泉社 ほぼ新品. 天武天皇の諱(いみな)は「天渟(あまのぬ)中原(なはら)瀛(おきの)真人(まひとの)天皇(すめらみこと)」であり、「八色姓やくさのかばね」の「真人」の称号を名乗っています(「紀」)。 「八色姓」とは「真人(まひと)・朝臣(あそみ・あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師((みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)」の八つの姓(かばね)をいい、天武天皇十三年(六八四)に制定したとされています(「紀」)。 しかしながら、この六八四年時の宗主国は、まだ九州王朝倭国なので、この記事は矛盾しております。しかも「八色姓」を制定した天武天皇自身が、臣下第一等の「真人」を自らの称号にするということは、全くおかしい話です。 従って、この「八色姓」は近畿天皇家の制定に係るものではなく九州王朝の制度であり、これは大海人皇子(天武)の九州居住時代の称号だったのです。. 4: 天武天皇と九州王朝 : 古事記・日本書紀に使用された暦 : 平成衝口発: 砂川恵伸 著: 新泉社:. 砂川恵伸氏は外科医だそうですが、お医者様ならではの鋭い指摘と思いました。 ただ、これをこのとき草壁皇子が出産したものとして捉え、母、鸕野皇女の年齢を下げ、草壁皇子の子、のちの文武天皇を年齢が合わないとして高市皇子の子にしてしまうなど. みな様こんにちは、合田洋一です。今年も大勢の方にお集まり戴きまして誠にありがとうございます。私の講演も今回で六回目、六年が経ちました。これも偏にみな様の古代史への関心の強さの賜と、感謝申し上げます。 さて、本日の演題は『天武天皇の謎 -- 「万世一系」系図作成の真相』です。この時代は、「九州王朝の終末と新生日本国の成立」の過渡期にあって、わが国では未曾有の動乱期でした。 そのような中で、政権移譲に伴う九州王朝と新生・日本国の主となる近畿天皇家との関係、そこに主役として登場した天武天皇とは一体如何なる人物であったのか。出自や事績などは“謎”が多く、未だ確論に至っていないと考えられることが数多くあるように思います。 そうである所以は、当代史料が少ない上に “勝者の歴史書”で通説となっている『日本書紀』の記述が、この時代の解明に立ち塞がり、真実の歴史を覆い隠しているからだと思われます。 そこで私は、この時代の“闇”を少しでも切り開くことができればとの想いから、ここに表題の奥深いテーマに敢えて挑戦することにしました。 とは言え何分にも、推測の域を出ないことが多いことから、“小説の世界だ”、あるいは“文献史学ではない”とのお叱りを受けることを覚悟の上で、 “仮説論証”をしましたので、みな様のご批判を仰ぎたいと思います。 なお、本文中でカッコ内古田説としている古田武彦氏の出典については、誠に残念ながら、紙面の関係上省略させて戴きました。お詫び致します。 また、論述にあたり“用語”での混乱を避けるために、次のように表記しました。 一,「近畿天皇家」と「近畿王朝」という使い分けをしていますが、「王朝」は “宗主国の朝廷”を意味すると看做(みな)し、王朝交代の文武天皇の大宝元年(七〇一)を境として、前を「近畿天皇家」とし、後を「近畿王朝」としております。 一,「天皇」称号は、これも文武天皇の大宝元年に始まるとされています(古田説)。それ以前の近畿天皇家の称号は「大王」であり、また「天皇 謚号」も奈良時代以降ですが、当小論では便宜的に通例の —— 天皇としておきます。 一、八世紀成立の『古事記』『日本書紀』における系図作成の意図、及びそれに伴う歴史観の基本軸を、「万世一系・近畿王朝一元史観」としております(これについてはで詳述します)。 ところで、「天武天皇」の人物像の. 砂川恵伸 | 商品一覧 | HMV&BOOKS online | 1947年沖縄宮古島に生まれる。1965年琉球政府立宮古高等学校卒業。1972年. 天智天皇崩御(六七一年十二月三日)後に起こったとされる「紀」による「壬申の乱」の顛末ついての概略は、次のようです。 戦争の開始宣言 —— 天武元年(六七二)六月二十二日「諸軍を差し発(おこ)して、急(すみやか)に不破道(ふはのみち)を塞(ふせ)け。朕(ちん)、今発路(いでた)たむ」 同月二十四日 —— 大海人皇子吉野出発、伊賀国から伊勢国に入る 戦争の終結 —— 同年七月二十三日 大友皇子自殺 戦争の期間 —— 三十一日 この「壬申の乱」については、古田武彦氏が『壬申大乱』(二〇〇一年・東洋書林、その後二〇一二年・ミネルヴァ書房より復刊)でその虚構を既に明らかにしております。それをかい摘んで述べますと、.

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12 形態: 414p ; 20cm 著者名: 砂川, 恵伸(1947-) シリーズ名: 平成衝口発 書誌id: baisbn:. 商品について・本商品は店頭と併売になっており、入札以前に商品が販売されてしまう可能性が御座います状態ランクについてこの商品の状態ランクは、C 中古品として考えても、気になるキズや汚れなどがある状態の商品です。当店の状態ランクの意味は、初めての方へ、をご確認ください. 記・紀に登場する「歳次干支」の語を分析した砂川恵伸さんは、第二著として『天武天皇と九州王朝―古事記・日本書記に使用された暦 』新泉社(0612)を上梓している。. . 書籍 出版社:新泉社 発売日: 年12月. 天武天皇と九州王朝 : 古事記・日本書紀に使用された暦 フォーマット: 図書 責任表示: 砂川恵伸著 言語: 日本語 出版情報: 東京 : 新泉社,. 古代天皇実年の解明 - 三倍在位年数を証明する - 砂川恵伸 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!.

. 本 の優れたセレクションでオンラインショッピング。. 論文抜粋 「折口信夫全集 第九国文学篇3」 折口信夫 中公文庫. 「紀」には、天武の妃と子供を詳細に記しています。これを天武の妃・その子供・妃の父を婚姻順に並べると次のようです。 一、額田(ぬかたの)媛王(おおきみ) —— 十市(とをちの)皇女(ひめみこ)(弘文妃) —— 鏡王(かがみのおおきみ) 一、尼子娘(あまこのいらつめ) —— 高市(たけちの)皇子(みこ) —— 胸形君(むなかたのきみ)徳善(とくぜん) —— 九州の大豪族(皇族)・宗像(むなかた)大社主 一、木穀(かじ)媛娘(ひめのいらつめ) —— 忍壁(おさかべの)皇子(みこ)・磯城(しきの)皇子(みこ)・泊瀬部(はつせべの)皇女(ひめみこ)・託基(たきの)皇女(ひめみこ) —— 宍人臣(ししひとのおみ)大麻(おおまろ) 一、大田(おおたの)皇女(ひめみこ) ——大来(おおくの)皇女(ひめみこ)・大津(おおつの)皇子(みこ) —— 中大兄(なかのおえの)皇子(みこ)(のちの天智天皇) 一、盧鳥野讃良(うののささらの)皇女(ひめみこ)(持統天皇) —— 草壁(くさかべの)皇子(みこ) —— 天智天皇 一、大江(おおえの)皇女(ひめみこ) —— 長(ながの)皇子(みこ)・弓削(ゆげの)皇子(みこ) —— 天智天皇 一、新田部(にひたべの)皇女(ひめみこ) —— 舎人(とねり) 皇子(みこ) —— 天智天皇 一、氷上娘(ひかみのいらつめ) —— 但馬(たじまの)皇女(ひめみこ) —— 藤原大臣 一、五百重娘(いほへのいらつめ) —— 新田部(にひたべの)皇子(みこ) —— 藤原大臣 一,太豕生*娘(おほゐのいらつめ) —— 穂積(ほづみの)皇子(みこ)・紀(きの)皇女(ひめみこ)・田形(たかたの)皇女(ひめみこ) —— 蘇我赤兄(そがのあかえの)大臣(おほまえつきみ) 豕生*は、草冠に豕生、JIS第3水準ユニコード? | 砂川恵伸の商品、最新情報が満載!.

天武天皇と九州王朝―古事記・日本書紀に使用された暦 単行本 – /12/1 砂川 恵伸 (著) 内容(「book」データベースより) 天智天皇から持統天皇までの古代史を復元し、九州王朝説を補強。 古事記・日本書紀に記された干支を詳細に検討し、. 天武天皇と九州王朝 : 古事記・日本書紀に使用された暦 資料種別: 図書 責任表示: 砂川恵伸著 言語: 日本語 出版情報: 東京 : 新泉社,. 12 平成衝口発. 私は、九州王朝の「天子・斉明」の弟で「大皇弟・真人」と称されていた「大海人皇子」が、「白村江の戦い」(六六二年)の敗戦で唐の進駐軍や復員兵でごったがえしていた九州王朝の首都・太宰府を脱出して、近畿に逃げ込んだと考えます。その際、近畿天皇家に対して九州王朝からの何らかの密命を帯びていたのかも知れません。 その当時の近畿では、「中大兄皇子」の「天皇家」が、大豪族であった蘇我本宗家を滅ぼし、「白村江の戦い」にも参戦しなかったため、実力を蓄え台頭してきて、近畿地方に覇権を確立していたようです。 そこへ、大海人皇子がやって来たのです。九州王朝は朝鮮半島での戦いに敗れ、亡国の瀬戸際に追い詰められていたとはいえ、皇子は“腐っても鯛”で、まだ格式だけはしっかりあり、往年の栄光を背後に決め込んでやって来たのです。その時、砂川氏が前掲書で言われるように、九州王朝の“七枝刀”などの宝物を持ち運んで来たことも考えられます。 それは、古田氏が述べておられる九州・久留米にあった九州王朝の宝庫「正倉院」の“御物”だったかも知れません。 そして、一方の天皇家の中大兄皇子は、“やっとこさ”即位して近畿天皇家の主・天智天皇となったのですが、侵入者で最大の政敵となった格上の大海人皇子に、脅威を感じて娘を二人も差し出し、歓待に務めたと思われます。 しかしながら、天智との蜜月は長くは続かなかったようです。その理由としては、天智は当初、後継者を大海人皇子としていたものの、そのうちに息子の大友皇子を当てたい、と考えたためではないかと思われます。 そのようなことから、大海人皇子は天智天皇を山科の木幡で暗殺したと考えます。『扶桑略記』にあるように「遺体」がなかったということと、「紀」に歴代天皇で陵墓が記されていないのは天智天皇ただ一人であるという事実が、それを雄弁に物語っていると思います。 その後、大海人皇子は九州の大豪族で嫁の父・胸形君(むなかたのきみ)徳善(とくぜん)と豊前の大豪族であった大分君((おおきだのきみ)恵尺(えさか)をバックにして、近畿の豪族達をも味方に付け(「近江遷都」反対の不満分子か)、筑紫や肥前から近畿を舞台に争乱を引き起こし、大友皇子を自殺に至らしめ、近畿天皇家を簒奪したのです。 ところで、「壬申の乱」は一つの見方として「易姓革命」だったのです(なお、これについては井沢氏や砂川氏も述べ. 「紀」は、天武天皇の父は第三十四代舒明天皇、母は第三十五代皇極天皇(重祚して第三十七代斉明天皇)であるとしています。果たして本当でしょうか。 今まで見てきた通り、天智と天武は兄弟ではなく、天武は「大皇弟」「真人」の称号から九州王朝の人となります。従って、通説の近畿天皇家の舒明・皇極(斉明)を父母とする系図は、全くの創作です。 更に言えば「宝皇女たからのひめみここと斉明さいみょう天皇は九州王朝の天子である」ということになると、なお一層系図の虚偽が明確となります。 また、推測の域を出ませんが、前回も述べました舒明天皇も“伊予滞在五ヶ月(「紀」)”の検証から、九州王朝の天子だったと考えられるのです。 古田氏はその著『壬申大乱』で、『万葉集』巻一に登場する“中皇命なかのすめらみこと”を、「七世紀中葉・以前の九州王朝の天子」としていることから、私は中皇命こそが舒明天皇ではないかと考えております。 ところで、天武が「大皇弟」であるならば、一体如何なる天子の弟だったのか、ということです。そして、父母は? 以下に、このことについて私の仮説を述べ、問題提起とさせて戴きます。 「紀」による通説ならば、斉明の崩御は六六一年なので、天武は天子・斉明の息子とされていても不思議はなかったのですが、白鳳年号(六六一~六八三年)が斉明の年号(古田説)だとすると問題が生じます。それは、「紀」では六七二年天武が近畿天皇家の天皇として飛鳥浄御原宮で即位、六八六年崩御とありますが、この間「白鳳年号の論証」により、九州王朝の天子・斉明が六八三年までは確実に生きているのです(その後も年号改元で生存の可能性あり)。そうなると、 “斉明・天武の親子説”は時系列的に無理です。 一方、「大皇弟の論証」から、天武は“天子の弟”でなければならないので、それでは天武は誰の弟なのか、ということになります。そこで、この時代の九州王朝の天子である人物として、次の三名を挙げることができます。 一人は“中皇命”です。古田氏によると「白村江の戦い」(六六二年)以前の天子であり、彼が拙論の舒明天皇だとしても「紀」では六四一年崩御とあるので、時代的には離れ過ぎており、弟とするのは無理と考えます。 二人目は、唐の捕虜となった“筑紫君・薩夜麻さちやま”です。薩夜麻は斉明の摂政(古田説)ということでもあり、斉明の後を継いだ. 天武天皇と九州王朝 古事記・日本書紀に使用された暦 - 砂川恵伸のページをご覧の皆様へ HMV&BOOKS onlineは、本・CD・DVD・ブルーレイはもちろん、各種グッズやアクセサリーまで通販ができるオンラインショップです。. 通説では「大皇弟」とは天皇の弟のこととされています。しかしながら、「紀」で「大皇弟」と記されているのは天武だけです。初見は、天智天皇三年(六六三)の条、 「三年の春二月(きさらぎ)の己卯(つちのとう)の朔丁亥(つきたちひのとのゐのひ)に天皇(すめらみこと)、大皇弟(ひつぎのみこ)に命(みことのり)して、冠位(かうぶりくらゐ)の階名(しなな)を増し換(まか)ふること、及び氏上(このかみ)・民部(かきべ)・家部(やかべ)等(ら)の事を宣(のたま)ふ」 とあります。 ところで、「大」の付かない「皇弟」は、用明天皇二年四月の条に「皇弟皇子」・孝徳天皇の白雉四年の条に「皇弟等」・白雉五年の条に「皇弟」が出現しております。 これについて砂川恵伸氏は、「大皇弟」の意味として、概略次のように述べています(前掲書)。 「三国時代の呉の孫堅の呼称が『大皇』であり、倭国は『(呉の)太伯の子孫』とも自称していることから、北朝系の隋・唐に対抗して南方系支配者の呼称を採用した可能性はないとはいえない。大海人皇子は自分の身分を『大皇の弟』と呼称した」 と。しかしながら、果たして中国の故事にかこつけた単なる呼称だったのでしょうか。否、私の考えは次の通りです。 「大皇弟」の初見の、天智天皇三年条の時、天智はまだ天皇になっていない「中大兄皇子」の時代であり(「紀」によれば、天智の即位年は天智七年の正月)、そうなると天皇の弟すなわち「皇弟」を意味しません。それならばどのような意味があるのか。 ずばり申し上げると、「皇弟は天皇の弟」を意味し、「大皇弟とは天子(天皇より格上)の弟」を意味するのです。 天武天皇と九州王朝 - 砂川恵伸 因みに、『隋書ずいしょ』「イ妥国伝たいこくでん」に登場するイ妥(倭)国王 “阿毎(あま 天)多利思北孤たりしほこ”はその国書に、 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無つつがなしや云云」 として、「天子」を名乗っていました。 つまり、大海人皇子は、当時日本列島の宗主国である「九州王朝の天子の弟」だったのです。 では、その時の天子は誰だったのかについては後述しますが、この「大皇弟」の論証が、拙論の最大のキーポイントとなりました。 また、次に述べる「真人」の称号からも、そして大海人皇子(天武)は九州王朝の姓である“天(あま 海士・海人に同じ)”を名乗っていることからも、また諱(いみな 死後に言う.

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砂川恵伸 著: 新泉社:. 天武天皇と九州王朝 古事記・日本書紀に使用された暦 著者: 砂川恵伸 登録すると、関連商品の予約開始や発売の情報をお届け! 砂川 恵伸さんの後を追って、Amazon. 天武天皇と九州王朝 - 古事記・日本書紀に使用された暦 - 砂川恵伸 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!. 砂川恵伸『天武天皇と九州王朝』批判(3)―「百濟の役」、「白村江の戦い」の敗因を考える―. 著:義江明子 出版社:山川出版社 発行年月:年06月 シリーズ名等:日本史リブレット人 006 キーワード:てんむてんのうとじとうてんのうりつりようこつか テンムテンノウトジトウテンノウリツリヨウコツカ よしえ あきこ ヨシエ アキコ 「天武天皇と九州王朝」 砂川恵伸 新泉社 「英雄・天武天皇―その前半生は忍者だった」豊田有恒 祥伝社.

砂川恵伸著『天武天皇と九州王朝』批判(1)―『藤氏家伝』の読み誤り― 砂川恵伸氏のこの著書は、前著書『古代天皇 実年の解明』に続く好著なのですが、それゆえに気になる部分があります。.

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